作詞について

▶ 詞(太字はポイントとなる言葉)

       じんのしんでん      つくりしは    えにしうまれの       きんのすけ      あにのもみじや      もりたてて       なごやざいかい       しゅどうする 

 ⓵ 神野新田  作りしは 江西生まれの 金之助   兄の紅葉屋 盛り立てて 名古屋財界  主導する

                       いせのかいはつ      しょくさんと        ひしいけかんたく         なしとげて               かせいようそく      せいていし             ちりょくざいりょく         たくわえる

  ② 伊勢の開発 殖産と  菱池干拓   成し遂げて 家政要則  制定し   知力財力   蓄える

                     ふゆのろくじょう      ひびどとう      じしんとあらしで         たいはした              もうりしんでん      ひきついで              じんぞうせきで          きずきあげ

 ③ 冬の六条  日々怒涛 地震と嵐で  大破した  毛利新田  引き継いで 人造石で   築き上げ

                      のうちうるおす        むろようすい     くなんいくども          のりこえて              くふうかさねる      さぶろうら              わかいちからで          やりとげる

  ④ 農地潤す  牟呂用水 苦難幾度も  乗り越えて 工夫重ねる 三郎ら   若い力で   やり遂げる

                     ていぼうみまもる       かんのんと         じゅうみんとうりの           さんさくで               いみんのこころ       まとめあげ             いっちだんけつ             むらつくり

 ⑤ 堤防見守る 観音と  住民統理の  三策で   移民の心  まとめ上げ 一致団結   村作り

                      のうちかいかく       いちはやく        じさくのうへの           せいかつへ              かんなんしんく       むくわれて              ゆたかなくらし          てにいれる

  ⑥ 農地改革  いち早く 自作農への  生活へ   艱難辛苦  報われて  豊かな暮らし 手に入れる


▶ 詞の解説

 【1番】

 ・初代神野(ジンノ、後にカミノに改称)金之助は現在の愛知県愛西市江西(エニシ)の生まれで、20歳

  の頃から、名古屋に養子に出た兄三代富田重助の舶来品販売店の紅葉屋(モミジヤ)を手伝う

 ・兄が亡くなった後、兄の子(四代富田重助)の後見者として神野富田(紅葉屋財閥)の発展に努めた

 ・初代神野金之助は、名古屋で認められる経済人(紅葉屋財閥当主)となり、名古屋財界を主導するまで

  出世することになる(明治銀行頭取、福寿生命・火災の社長、名鉄社長など数多く)

 ・初代金之助は高額納税者として貴族院議員(国会議員)に選ばれたが、任期2年間で辞任した

 【2番】

 ・初代金之助は広大な土地を購入した三重県で、植林、養蚕、酪農、農業と経営を拡大するが、資金は神野家

  と富田家の共同資産からであり、他にも多くの事業を手掛けていく

 ・製糸業、運輸業などを始め、明治政府が勧める殖産(ショクサン)事業を推し進めた

 ・神野新田開拓の前に幸田町の50町歩の菱池(ヒシイケ)干拓を成功し、開拓事業を経験した

 ・神野家と富田家(紅葉屋財閥)の財産管理のため、家政要則カセイヨウソクを制定、より結束を固める

 ・以上のような活躍を通して、各種ノウハウや財力を蓄えて行った

 ・神野家富田家の所有した土地は、日本最大の地主と言われた酒田の本間家と匹敵する程であった

 【3番】

 ・神野新田がある六条潟は冬季の強烈な西風による怒涛(ドトウ)で新しい新田が作れる状況になかった

  (江戸時代末期から明治20年の間、怒涛(大波)で堤防が破壊されるので新田開発は断念されていた

 ・毛利は新田と牟呂用水の工事を進め、途中で何度も災害に遭いながらも、ほぼ完成したが、不幸にも

  濃尾地震と翌年の台風で新田は完全に崩壊し、開拓を断念した

 ・初代神野金之助は菱池干拓の経験を基に毛利新田と牟呂用水を引き継ぐことにしたが、新田の開拓資金

  調達は、甥の四代富田重助が取り仕切った

 ・毛利新田の失敗は堤防が貧弱であったので、以前より親交のあった服部長七の人造石(ジンゾウセキ)

  の採用と、堤防の大型化で堅固な造りとした

 【4番】

 ・神野三郎は神野新田開拓が始まる明治26年は18歳で、豊橋に単身で派遣され現地責任者となった

  (土地改良区と資料館のある所に神野新田事務所があり、当初三郎が寝起きしていた)

 ・牟呂用水は治水工事が難しく、三郎達が自在運転樋など色々な工夫や改善をした

 ・三郎を初め、岡田伊助など若い人が司令補佐などとして新田工事に携わって新田完成に導いた

 ・牟呂用水は整備で水量に余裕ができ、発電所誘致や近隣地域への分水もできるようになった

 【5番】

 ・移民の信仰心を育てるのと堤防の破損個所を特定するために堤防に、三十三護岸観音を建立した

 ・色んな地域から移住して来た住民の和を図るため、牟呂神富神(シントミ)明社、五郷神社、二開神社と

  神富山圓龍寺(シンプウサンエンリュウジ)神野尋常小学校(三郷駐在所のあたり)を作り、精神的環

  境の充実を図った

 ・組合や二人会や敬老会など、住民の一体感を醸造して結束を固め、村作りを進めていった

 *明治40年頃、初代金之助は神野(ジンノ)から神野(カミノ)に改称するも公開は積極的ではなかったよう

 ・初代金之助が大正11年に亡くなってからは、四代富田重助が神富(カントミ)殖産の社長となり、住民の

  生活安定に努力された(牟呂中学校の北の農協の辺りに長生病院を作るなど)

 【6番】

 ・初代金之助や三郎は、小作者が自分の土地を持って耕作できる(自作農)ようにと、早くから進めていた

 ・三郎は、農地改革を国の方針より早く、小作人優位で愛知県庁と連動して改革を進めていった

 ・神野新田の農地改革は三郎の意思が反映され、小作人にとっては他の地区より優位な条件となり、先祖の

  艱難辛苦(カンナンシンク)が報われて、現在の豊かな生活につながった

 艱難辛苦は紀徳之碑にある「子々孫々克く念ひ篤く信じて父祖の艱難辛苦を忘るる勿れ」より


▶ 詞に登場する人物

初代神野金之助

1849年~1922年

三代富田重助

1836年~1876年

四代富田重助

1872年~1933年

神野三郎

1875年~1961年


 ・初代神野金之助は神野家富田家(紅葉屋財閥)の当主で神野新田開拓の総責任者

 ・三代富田重助は初代金之助の長兄で紅葉屋に養子に入り舶来物で莫大な富を得るも、40歳で亡くなる

 ・四代富田重助は三代目の長男で、父亡きあとは初代金之助の後見を受け紅葉屋財閥の共同経営者となり

  神野新田開拓は資金調達を担当、初代金之助が亡くなると神富殖産の社長となり神野新田を経営した

 ・神野三郎は姉の子(甥)で娘婿、神野新田の現地責任者で、分家して豊橋神野家の初代当主となる

 ・神野金之助と富田重助は明治銀行、名古屋鉄道、福寿生命・火災など多くの社長を歴任している、また

  神野三郎も豊橋を中心に業した


▶ 牟呂神富神明社にある頌徳碑

初代神野金之助

四代富田重助

神野三郎